昭和41年10月2日 夜の御理解
花よりも団子と、言うような諺がありますように、たいがいの者の心の中にはやはり、まあ、花よりも団子と。花を見るよりか、腹いっぱい食べたほうがいいと言うようなですね、もちろん団子も大事ですけれども、花を求めての、言わば信心でなからなければ、それはやはりあの信心が、これは(むしろ?)信心に限らんのですけれども、信心がやはりこうしみじみと、生活の中に潤うておると言うか、信心が好きと言うか、そういう人達の場合なんか、例えば私の、あの、爺にあたります婆にあたります、あの、(むぎお?)、爺婆のことを思うてみるんですけれども、もうどんなにとり上げ、(きつい?)のに忙しい時でありましても、いつでもあの夕食をすまさせて頂いて、お風呂を頂いたら、婆と、二人が( ? )に座って、もうそれこそ長々とお経あげてですね、ほんとにそれこそ、もう側におります私どもその、子供までがですね、ありがとなるような雰囲気が、出来てくるんですね。だからもうあれが楽しみらしいんですね。自分の心の中に、長々と、長々と夜御祈念をし、長々と、叔母が、叔母じゃないです(笑)、( ? )、あげておる。その中に自分の心の中に、欲も(徳?)もないと言ったような、有難さと言うのが、湧いてきておったのであろうと思うです。
ですから私はそれを求めての信心でなかにゃいかん。それを求めての、御祈念でなからにゃいかん。例えばここのお広前での、おかげを頂いております家族の者やらは、それが、その雰囲気の中に浸っておりながら、それが頂けないと言うきらいがあるです。だからもちろん、花よりも団子を求めてくる人も沢山あるですけれども、中にはやはり、もう椛目にお参りをさせて頂いて、有難うならせて頂こう、有難い御理解を頂かせてもらおうと、と言うて来る人達が、あるんですけれども、家族の者は、そのそういう雰囲気の中にはあるけれども、その雰囲気を、頂こうとしない、いやあまりにも、その雰囲気に浸っておるものですから、そこんところが疎かになる。せめて日に、一遍くらいは、心行くまで、御祈念でもさせて頂いて、いわば有難うなるまで御祈念させてもらうということ、( ? )だけじゃないですね。なんとはなしに、繰り返し繰り返し大払いでも、奏上させてもらいよったら、ずーっと御祈念させていただきよったら、心の中に、何か知らん、信心の、言わばありがたさと言ったようなものが、心の中に頂けるまで、私は信心、あのー、御祈念でもさせてもらうと言うような、ことがとくに、とりわけ、ここで修行しておった、家族の者である者は、それが必要だと私は思うんですね。
それは( ? )、ご理解を( ? )。自分の心の中にも、やはり、その、と言うてその、今団子を求めると言うようなことばっかりもないでしょうけれども、団子を求めなければ、お花も求めない、と言ったようなことじゃいよいよつまらんです。だから、お互いが団子を求める時だけは、家の者も一生懸命拝んで、何か、特別、お願いでもせんならんという時には、( ? )、御神前に出て一生懸命御祈念をしてるんです。ですからせめてこのお下がりの御祈念ぐらいは、もう心行くまで、御祈念をさせていただけれる、その、心の中に有難くならせて頂けれるその、準備と言うものが、ちゃっとその後先にできていかな、精進しなければやっぱいけないと思う。それはね、もうほんとに、御神前に向かわせてもろうて、大払いを3巻、5巻とこう、例えば上げていくなら、たいてい有難くならんものでも、有難くならせていただけれる、おかげは受けられるんですよ。その心の状態が、有難いのですね。
そこんところからこの信心が段々好きになっていくと思うですね。どうぞ。
2005 10 16 kayotaro